三つの目的があります。
1、神への礼拝としての葬儀
キリスト者にとって、すべての時、すべての事が、第一に神への礼拝です。
-エペソ1章3~6節-
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。------------それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」
-ネヘミヤ9章5節-
『レビ人イエシェア、カドミエル、バニ、ハシャブネヤ、シェレブヤ、ホディヤ、シェバンヤ、ぺタフヤは言った。「立って、あなたたちの神、主を賛美せよ。とこしえより、とこしえにいたるまで栄光ある御名が賛美されますように。いかなる賛美も称賛も及ばないその御名が。」』
2、遺族への慰め、励ましとしての葬儀
私たちの親族、友人、知人が召されることは悲しみ、心に寂しさを受けます。
お互いより深い悲しみにある方々のために助けあい奉仕し合うばかりでなく、神を仰いで信仰から来る望み(復活)によって励ましあうのが葬儀であり、また社会的な告別の時です。
復活こそキリスト教葬儀の本質であります。
-第1コリント12章26節-
「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」
-ロマ書12章15節-
「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。」
3、各人が信仰を吟味する良き機会としての葬儀
地上における、親族、友人、知人との公の別れの機会が葬儀です。故人の信仰の証の場であり、自らの信仰を吟味しながら、「死」を考え復活の主を見上げながら死の備えを意識させられるのです。
-ヨハネ11章25節-
『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じるものは、死んでも生きるのです。」』
また、故人の信仰の証をとおして、主を語る良い機会です。
私たちは時が良くても悪くても福音を語ることが大事です。
-第2テモテ4章2節-
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」